紀元前400年頃に活躍したヒポクラテスは、精神疾患を脳の病気だとし、それまで信じられてきた「悪霊説」を否定した。具体的な治療法こそ確立されてはいなかったが、今でいう「作業療法」のような働きかけも患者に対して行われていた。つまり、この時代は、精神疾患も他の病気と同じに扱われ、極端な差別や偏見はなく、収容施設などで共同体から排除することもなかったと思われる。
— 精神医療 —
なぜ精神病院は生まれたのか?
2017-06-26
しかしながらそれが、宗教が社会の中で台頭し始めてからおかしくなり始める。11世紀頃より精神疾患の多くが魔女として迫害されるようになり、それはちょうどヨーロッパのキリスト教社会での教皇権が絶頂に向かう反面、ローマ教会の権威を否定する「異端」各派の運動が活発になることから激化した。魔女狩りはもともとカトリック教会が中世において、異端を取り締まるための魔女裁判として行われていたものであったが、16世紀に宗教内紛が始まると、新旧両派がそれぞれ敵対する宗派を魔女として告発するようになり、それは17世紀まで続いていく。つまり、激しい宗教戦争の中で、「非寛容と共同体からの排除」の意識が人間の心のなかに習慣化され、汎化してしまったのである。つまり人類史上、人間が「宗教化という自己中心」に堕ちた時代である。貧困があるから宗教があるのではなく、宗教という信仰の偽物が社会を貧困にするということを示している。
一方、人間の「宗教化」が起きる時そこには同時にその反動として「世俗化」の流れも生み出すことになる。これがルイ14世という世俗化の塊のような王権の誕生である(贅沢と侵略戦争の日々。結局このような真の豊かさがわからない自己中心に堕ちた王の出現が貧困を生み、後のフランス革命へとつながっていく)。彼は、精神障害者・犯罪者・浮浪者対策として17世紀に「一般施療院令」とその強化令を発し、労働をしない者として癩(らい)施療院だった建物を転用して収容した。これも社会治安のみに注目した「世俗化という自己中心」によって行われる「非寛容と共同体からの排除」なのであり、それを宗教的に行ったのか、世俗的に行ったのかの違いがあるだけである。つまり宗教家が迫害弾圧した人々を、今度は堕ちた国王が世俗的手法という別の方法(政策)で社会から排除したのである。
18世紀以降、精神障害の治療・管理が司祭や統治者から医師の手に委ねられ、オーストリア出身のフランスの精神科医が初めて公式に精神疾患の一つの統合失調症を「早発性痴呆」として記述した。これが精神医学の始まりとされるが、つまり、当時の精神科医師たちは、11世紀から17世紀まで600年間にわたり続いた混乱した社会の中で人々の精神に生じた異変のその結果に、ただ単に名前をつけ分類することから始めたということである。これもただ「区別」することを始めたに過ぎない。
つまり、宗教化した社会と堕ちた国王の招いた混乱の後始末を任されたのが医師であり、そして多くの医師たち(フィリップ・ピネルのような優れた人もいたけれど)も、その混乱を生業(なりわい)とするような世俗化を受け継ぐか、あるいは診断分類を科学として信奉するような名誉争い(科学という宗教化)に堕ちていくことになるのである。このような宗教化や世俗化は、現代社会にも受け継がれてしまっていて、実は本質的に見て大きな流れに変化はないと考えている。つまり、人間の生き方における「宗教化」と「世俗化」は社会全体にはびこり、この世は混乱したままだということである。
1950年代より精神科の薬が登場し、生物学的精神医学が全盛を迎えたが、薬が開発され、開放処遇が可能になっても、診断と薬で人生が縛られていくことに変わりはない。21世紀初頭となっても精神障害を識別するための確かな生物学的指標は発見されず、その脳内伝達物質の化学的不均衡理論や、薬物療法や他の様々な治療法の有効性にも疑問が投げかけられている現状である。短期的、部分的には改善が見られても、永続性が乏しく、再発が多い。例えば初発したうつ病の患者さんが再発する可能性60%、2回目の人が3回目を再発する確率は 75%、3回目の人が4回目を再発する確率は 90%である。治療法の差異もさることながら、ここにもその人の「生き方」が関係している。
私は、精神科医になりたての頃からこの状況をなんとか出来ないか?自分に出来ることはないか?いや、自分にしか出来ないことがきっとあるのではないか?そう思いながら日々を過ごしてきた。あっという間に30年が過ぎた。そして、やっとそれがより具体的に見えるようになった。微力ながら、私の人生最後の日が訪れるまで、この道に取り組んでいきたいと思う。
昨年から地域での無料の精神保健福祉相談活動を始めた。無料なのでぜひ、既存の精神医療や精神医学あるいはそれに類する行政サービスに納得がいかない多くの人に利用していただきたいと思っている。