
秋も本番ですね。日本の四季はほんとうに奇跡のようにどれも素晴らしいです。
さて、わたしたちはいつも、何かしら新しい事をしようとします。今、この瞬間もそうです。ビデオテープのようにまったく同じことが再生できることはありません。そして時として、わたしたちがやろうとすることが、荒野に道を、荒地に川を設けるようなことである場合もあります。
ただし、その目的は、見えるものではなく、見えないものにこそ目を向けていることも多いです。見えるものは一時的、刹那的であり、見えないものはいつまでも続くことを本能的に知っているからです。
ちょっと変な言い回しですが、では私たちにはその目に見えないものが見えているでしょうか?多くの場合、目に見えないものはどうして、感情や知性や理性だけでは理解することができないのでしょうか・・・。
私は以前から、精神的健康には霊的人間性が不可欠だと述べてきました。それを合わせ持って始めて「全体的人間性」というのです。その概念を頭だけで理解しようとしても難しいのですが、本来は誰しも生まれながらに霊的な人間性が備わっているのです(あなたも生後の一定期間、言葉を覚えるまではそれを活発に使っており、それは今もあるのです)。
目に見えるものを、耳や鼻で感じることは難しく、音は目や鼻で感じることは難しく、匂いは目や耳で感じることが難しいでしょう。それと同じように目に見えない普遍的なものへの信頼は、それを感じることのできる自分の霊的な部分でしか感じ取ることができないのです。
つまり、「心」というものは、知性・感情・意思を司るものとして作動するものなので、目に見えず、形もないものに対するセンサーが備わっておらず、ゆえに、知性や感情や理性などだけで理解することはできません(ちなみに感情はただ反応しているだけで理解しているのではありません)。
要するに、いわゆる心や頭だけではわからないものなのです。わかる人にしかわからないということになってしまうことも多くなります。しかし、それに対するセンサーが働きだせば、それまで気づかずスルーしてしまっていたいろんな意味や価値に次第に気付くようになります。
理解できなくても、なんだかよく分からないけれど、とりあえずそのセンサーを使ってみることで、それを活かしながら生活してみることで、しだいに気づきの扉が開いていき、さらに大きな気づきを求めてセンサーは作動開始していくのです。その部分を働かせて感じ取るようにすれば実は簡単なことなのです。修行もいらず、難しい法則の理解なども不必要です。すでに持っている能力を使うだけです。使わないから廃れていく、あるいはそこに混乱がありわからなくなっている人が多いだけです。
そして、そのセンサーを使いながら、いつまでも続く見えないものが在るのだということへの確信が持てたら、今までは理解できなかったことの多くに気づけるようになり、それと同時に、次第に少しずつ知性や感情や理性を司る領域、つまりあなたの心や頭でも分かるようになっていくのです・・・。
それは特別な事ではなく、自然なこととして・・・。
PS)さあ、秋を楽しみましょう。ちなみに私は今月、誕生日ですが何もいりません。この季節の素晴らしさだけですばらしいプレゼントをもらった気分です。
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