
「生き方」といえば、年配の精神科の先生方はよくご存知と思うが、過去の精神医療において「生活臨床」と呼ばれた地域活動が流行した時期があった。生活臨床とは1960年代から始まった生活臨床学派とよばれる人々の地域精神医療の実践である。彼らは統合失調症の人を症状・心理面よりもむしろ、世間のなかで生活する際の困難に焦点をあわせて観察した。そして、生き方という点で病人を二つのタイプに分けた。受動的な生き方を好むタイプと、少々摩擦があっても能動的に世間と接触しようとするタイプというニつである。それに加えて、それぞれの病人が「何に重きをおいて生活するか」をみると、それぞれに違った弱点をもっていて、それが引き金になって再発することがわかる、局点としては色(恋愛)、お金、名誉(プライド)、身体(心気性)の四つがあると指摘した。
「金」というのは、そこにこだわりと脆弱性を持ち、たとえば、四月から同僚より給料が百円少なくなったというような一見ささいなことにより、長く保たれていた心の安定を乱し再発してしまうといった例があるように、いろんなストレスの中でも特にその領域が弱点となることを指す。つまり再発のきっかけはその人にとっていつもよく似ているということを意味している。
生き方に注目するという点ではその時代にあってはユニークな視点であり、地域精神医療の発展に光をもたらすかに見えた。しかし、このような臨床活動も結局は廃れていってしまった。それは「学究派」と「実践派」のような分裂が生じ、一方は学問的に理論を突き詰めることが目的になったり、一方は理論よりただの訓練に終始するようになったり、要するに、医療関係者、支援者の側が、宗教化、世俗化していくという人間の自己中心的落とし穴に堕ちて行く経過を辿ったためである。
このように、精神医学や精神医療はいつも、患者の生き方には注目することが出来たにしても、自分の生き方にも同じような弱点(学問主義あるいは実践主義のどちらかに倒されてしまいやすいという落とし穴)が在ることに気づかない。そこには病気であろうがなかろうが、障害を持とうが持つまいが、それ以前に、「人間とはどんな存在か?」「生きるとはどういうことなのか?」「その目的は何なのか?」などについて、普遍的な視点の欠如があるのである。このブログではこれまでの精神医療や生き方についてのいろんな常識を疑い、まず、これまでに欠けていた普遍的な視点から考えていくことて、新しい視点が示していければ幸いである。新しいと言ってもそれは一見目新しく感じたとしても、むしろ原初的普遍的な視点なのであるけれど。
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