プリンストン大学心理学教授(1920-1997)であったジュリアン・ジェインズは、人間の意識にかかわる研究に従事し、当初は脳機能の伝統的な比較心理生物学的アプローチをとっていたが、満足のいく結果が得られず、広く文献学や考古学の研究へと方向転換。1976年に生涯ただ一冊たけの本『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』を刊行した人である。
彼の仮説を簡単に述べれば、人の意識の起源の研究を進めるにつれ、自意識は言葉に深く根ざしているため、人が言語能力を持たない段階では意識はなかったことに気づいた。さらに、言語を会得した後の段階の時代考察を西洋古典学・神話学・考古学・心理学を駆使して進め、意識の起原は意外に新しく、今から約3000年前に生成したと結論するに至った。それ以前の人間は、意識の代わりに二分心(右脳心と左脳心)を持つことにより、社会生活を成り立たせていたという。
ジェインズは、古代人の心は、いわゆる現代で言う自意識と言うものが発達する以前において、そもそもそういう意識を持たず、右脳と左脳の関係が、ある意味で神々の声とでも言うべきメッセージに関わる心と、それを参照しながら動く、いわばそれらと共に日常や環境に適応して生きていく心とに分かれていたと考えた。そしてこの本の中で偶像や神託、霊媒などの該博な例を駆使して、かつては人生の指南役として、あるいは時に危機解決の役を果たしていた神の声が徐々に衰退していった様を分析したのである。
これはあくまで仮説ではあるし、またこの本にかかれている全てに同意しているわけでもない(彼は左脳心の人間は右脳心という神の奴隷だったと記しているが、そんなことはなかったと思う。むしろ信頼関係があり親友のように、時には子が素直に父母を慕うような、そのような関係性であったと思う)。
しかしながら、少なくとも私が精神科医になって出会ったさまざまなどんな仮説より、説得力があり、本物(古代に実際に人間の中に自然の一部として生み出された素晴らしい現象、メカニズム)により近く、偽物だらけの精神医学の諸仮説の目からウロコを落としてくれる仮説だった。